草津山 光泉寺のご案内
光泉寺山門光泉寺は、白根明神の別当寺として正治二年(1200)に草津領主湯本氏が再建したと言い伝えられている。
光泉寺僧職は鎌倉幕府から地頭職を賜い、寺領として白根庄の領有を許されていた。真言密教の寺院である。
鎌倉幕府滅亡後は南朝に仕え、僧兵を率いて合戦におもむいている。南朝の重臣らはこぞって白根大明神に神礼を奉納している。護良親王、新田義貞、楠正成、名和長年、北畠親房、等々である。
南朝衰特微ののち北朝に仕えた。
文明十三年、近衛道興の斡施によって「勅願寺」となって、後花園天皇の勅額、柏原天皇の震翰を賜っている。また、宗祇、宗長、近衛龍山らの草津湯治の宿所でもあった。戦国時代、光泉寺僧職草津氏は猿ヶ京合戦に参戦、功労により上杉輝虎から感状を賜っている。
ご本尊様、薬師如来
ご本尊様、薬師如来
釈迦堂
釈迦堂元禄十六年八月、江戸の医師外嶋玄賀宗静の発願によって建立された。施主は草津村湯本弥五右衛門。 この本尊は奈良東大寺公慶上人の作。東大寺大仏修造に貢献のあった玄賀に、上人が大仏内腹の骨木をもって二体の釈迦像をつくり、その一体を賜ったという。玄賀は夢に藁屋二間四面の堂に安置せよとの仏の告をうけ、十五年を経て光泉寺境内を理想の場として建立した。
遅咲き如来
遅咲御守元禄時代東大寺公慶上人の作として伝えられていた釈迦如来は、平成十七年の調査により、そのことが事実であると証明されました。
以来三〇〇年を経て世に出た仏様であることから、「遅咲き如来」として地域の人々に改めて信仰されております。今まであまり花を咲かせられなかった方々、これからもう一花咲かせたいと願っている皆様、是非お参りし、願いを叶えていただきます様祈念申し上げます。
行基開基の薬師堂
行基開基の薬師堂養老五年(721年)僧行基によって開基されたと言い伝えられている。日本温泉三大薬師の一つとして著名であった。境内には井上円了博士の筆になる「行基開湯壱千弐百年記念之塔」が建っている。
不動堂
不動堂
鐘楼堂
鐘楼堂
山門の仁王様 阿形像・吽形像
山門の仁王様 阿形像・吽形像
初代熱の湯湯長野島小八郎の碑
初代熱の湯湯長野島小八郎の碑越後三条の人、明治十一年に草津温泉に来浴、明治十三年に推されて初代熱の湯湯長となり明治四十三年まで三十一年間を浴客の為に身心をつくした。「時間湯」の草創期に大きな存在であった桂延玉とともにその確立に功績があった。
湯泉観音
湯泉観音
湯善堂
湯善堂
地蔵菩薩
地蔵菩薩
入浴逝者供養塔
入浴逝者供養塔明治三十八年に浴客たちによって建てられた。源頼朝の入湯以来湯治中に死亡した人々の霊を供養したものである。
入浴逝者供養塔
光泉寺の寺紋九曜紋である。一大星の周りに八つの小星を配したこの紋は信州の豪族望月氏の家紋で、草津湯本氏は望月氏の出であることから開基の家紋をとって寺紋とした。
湯浴み弁財天
湯浴み弁財天養老年間行基菩薩はこの地にたち、眼下に光る泉を見出し、それがただの泉でなく万病にきく温泉であることを喜び、薬師如来をまつり光泉寺を開く。以来泉は人々の病をいやす慈悲の泉となり、今日の草津温泉の源となった。
この池はそれにちなみ「慈悲の泉」となづけられ、名湯草津温泉に浴し、身も心も清浄になった喜びと感謝の姿をあらわす、湯浴み弁財天をおまつりした。金光明最勝王経に弁天様は、音楽、弁論、財宝、知恵の徳を司り、古くから庶民の信仰篤く、霊験いともあらたかです。
村越化石歌碑
村越化石歌碑村越化石経歴
大正11年静岡県にて出生
昭和16年草津町に移住
昭和24年大野林火に師事
俳人協会賞・蛇笏賞ほか俳壇の各賞を受賞
平成2年点字毎日文化省受賞
平成3年紫綬褒賞を授与さる
近衛龍山公和歌
天正十五年五月、准三宮前関白太政大臣近衛龍山前久公が草津湯治のおり薬師堂に奉納した和歌十首。
巻首に「草津湯治之中、於薬師堂、彼本尊之名号を句之上にすへて、法薬のため十首の歌をよ見けり。」とあり、な、む、や、く、し、じ、う、に、し、む、(南無薬師十二神)の十文字を頭にして、十種の和歌をしたためている。龍山公は筆蹟に秀で、近衛流書道の開祖といわれている。
吉野秀雄短歌
うつせみの命を熱き湯に賭けき
入浴逝者供養塔あはれ
吉野秀雄(1902~1967)歌人、会津八一に私淑、生涯を病気に苦しみすぐれた歌をのこした。「苔径集」「寒蝉集」「良寛和尚の人と歌」などの著書がある。